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ジム・マーシャル (野球) : ウィキペディア日本語版
ジム・マーシャル (野球)

ジム・マーシャルJim Marshall1931年5月25日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州出身の元プロ野球選手・コーチ・監督。
フルネームはルーファス・ジェームス・マーシャル(Rufus James Marshall)。
== 来歴・人物 ==
1950年シカゴ・ホワイトソックスと契約しプロ入り。1958年ボルチモア・オリオールズでようやくメジャー初昇格。以後5シーズンにわたって計5球団でプレーした。
1963年日本プロ野球初の現役メジャーリーガーとして中日ドラゴンズに移籍(それまで日本球界では、兵役中にアルバイトとしてプレーしたレオ・カイリーや、ラリー・ドビーなど戦力外通告を受けたメジャー経験者がプレーしたケースはあったが、マーシャルは前年までメジャーのレギュラー野手だった)。オープン戦ではさっぱりの成績でファンをやきもきさせたが、公式戦に入るとメジャーの貫禄を見せ、打ちまくった。
中日では江藤慎一ボブ・ニーマン(後に移籍してきた葛城隆雄)とクリーンナップを組んだ。タイトルこそ取れなかったものの、左右に打ち分けるスタイルでまずまずの成績を残した。特に巨人戦にはめっぽう強く、またバントヒットも得意にしていた。中日には1965年までの3年間在籍。1964年6月17日後楽園球場での巨人戦の5回表、マーシャルはレフトフェンス際に大飛球を放った。左翼手・相羽欣厚がジャンプしてこのボールを取ろうとした直前、レフトスタンドのファンが身を乗り出してこのボールを取ってしまった。球場の観衆は最初は「ホームランか?」と色めきたったが、レフト線審は「ファンがボールを取らなければ捕球できた」と判断、アウトを宣告した。中日側はこの判定を不服として審判団に猛抗議し、一時は西沢道夫監督が「没収試合も辞さない」とベンチ内の選手を引き上げさせたが、球団フロントやこの時球場にいたセ・リーグ会長鈴木龍二の説得もあって「提訴試合」とする事を条件に試合は再開された。この事は「幻のホームラン事件」としてしばしば紹介されている〔大リーガーの“消えた打球”はフェンスオーバーの左飛(スポニチ) 〕。
地元・中日球場で開催されたオールスターゲームではMVPを獲得し、得た副賞の軽自動車をたいそう気に入って球場への足代わりに使っていたという。
帰国後はメジャー球団のコーチやマイナーの監督を歴任し、1974年途中から1976年シカゴ・カブス監督、1979年にはオークランド・アスレチックスの監督を歴任。アスレチックス時代は、首位打者に盗塁王を獲得したリッキー・ヘンダーソンをマイナーから抜擢した。また、監督の近藤貞雄に招聘され〔与那嶺氏、『信じられない』 近藤貞雄氏ふ報に米国の親友も絶句、中日スポーツ、2006年1月4日〕、1981年から3年間は中日の総合コーチとして再来日し、1982年の同球団のリーグ優勝に貢献している。近藤とは親友の関係であった〔。
相手チームのファンの一人が打席のマーシャルに対し、「マーシャルの子供は『子マーシャル!』」という野次を飛ばしたところこれが観客に受け、場内は爆笑で包まれたという(「中日スポーツ」記事より)。
中日退団後も、ニューヨーク・ヤンキースシカゴ・ホワイトソックス傘下のマイナーリーグの監督を歴任した。そしてアリゾナ・ダイヤモンドバックスの創設から関わり、現在は同球団のシニアアドバイザー(太平洋沿岸地区担当)を務めている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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